【随筆】原点回帰、会社立ち上げの道のり

私の原点

私は生え抜きの台南っおなごで、幼い頃から歴史、文化、遺跡、宗教、グルメなどのようなスローペースながら深い意味を持つものが特に好きです。

台南市の中西区には、「赤崁楼」、「祀典武廟」、「祀典大天后宮(元寧靖王府邸)」、「台南孔子廟(台湾最初の学校)」などの一級遺跡や、数多くのグルメがあります。

日本に留学していた頃

私が九州大学の交換留学生だった時に、JLCCコースを受講しました。JLCCコースは、世界中から集まる日本語専攻の学生、また他学科を専攻していても十分な日本語能力を持っている学生を対象に、特別に開設された1年間のコースです。1年間をかけて、日本語と日本文化をより深く研究することができます。

私のクラスは全部で20人ですが、九州大学のやさしいご手配で、留学生一人ひとりに日本人のチューターがつき、留学生活の面倒を見ていました。この40人の大学生が1年間一緒に遊び、生活することで、自然に一生の仲間になりました。

私のクラスでの親友Xちゃんは、ドイツのミュンヘン大学のエリートです。Xちゃんは福岡の町並みで散歩していた時に、美容院からヘアモデルに誘われたことがあるほどの美人です。

ところが、この子は自分の外見にあまり気を使わず、時間をむしろ自分にとってもっと大切なことに費やしているのです。例えば、1年かけて、能の稽古をしていました。

私とXちゃんは気が合い、心置きなくなんでも話せる生涯の友です。Xちゃんがもともと几帳面で穏やかなドイツ人なのに、二人が一緒にいると、いつも朗らかに笑うようになります。

私たちのクラス担任のS先生のご手配で、二人が一緒にY先生のご指導を受けながら卒業論文を書くことになりました。Xちゃんが選んだテーマは『ドイツと日本の学校教育の違いについて』というドイツ的なものでした。私が選んだテーマは『博多の郷土料理(おふくろの味)』という食を大切にしている台南人が選びそうなものでした。

200人分のアンケートを集めるために、7月の暑い日に、私が九州大学国際交流会館(「イオンモール香椎浜」近く)から中洲まで40分ほどの距離を、自転車で一週間走っていました。

その時、ちょうど「博多祇園山笠」が行われ、私は一度に何十人もの方からアンケートをとることができたので、本当に助かりました。 残りの分、福岡の住宅街に並んでいる家一軒一軒のドアをノックし、集めてきました。福岡の方々のおもてなし、また台湾人に対する日本の親しみやすさのおかげで、最終的に、200人分のアンケートを集めることができ、無事に卒業論文を完成させることができました。

私が卒業論文を無事に発表終えた後、Y先生が私に話をおかけになりました。実は、Y先生がずっとご心配になったのは、私が選んだ卒業論文のテーマが、なかなかうまく完成できそうな研究分野ではなかったことです。でも、私が当時テーマを決めてから、Y先生は一度も冷や水を浴びせることなく、ただ1年間ずっと黙々と、私のそばでアンケートの設計や史料探しなどのことを支えていただきました。今思うと、これが日本人の思いやり、デリカシーというものだと思います。

卒業後社会人になって、私が新卒入社した会社をやめ、コロンビア大学に留学するために日本を離れようとしていた頃、一度S先生の故郷鎌倉にあるご自宅をお訪ねしました。その時、初めてS先生がコロンビア大学に留学なさっていたことがわかりました。ニューヨークでの生活について、S先生からいろいろ教えていただきました。その時、二人が一緒に楽しく鎌倉大仏を見物しに行ったり、伝統的な和菓子を食べたりしました。

卒業後もうちのクラスの生徒たちのことに対し、S先生からお心遣いをいただいています。とても貴重なご縁だと思います。訛りがある面白い日本語を話している留学生、チューターたちと先生、私たちはお互いの世界各地に散在しているパートナーであり、福岡は私にとって、永遠の日本の故郷であることになりました。

母語以外の言語を話す時、文法や発音が完璧かどうかは本当に問題ではなく、一番大切なのは人と人との感情の交流です。また、聞き手も話し手が母語を話していないことを、きちんと理解できるのですから、皆さんもぜひ勇気を持って外国語を話してみてくださいね。

経済的な余裕を持っていない子供たちを心から応援しています。もし自分には、留学の夢があるのなら、(台湾学生の場合)台湾の大学に在学する時、交換留学生の資格を取ってみてください。交換留学生が支払う学費は台湾の大学の授業料で、留学先の授業料ではありません。また、留学先の生活費を援助する奨学金が応募できれば、家族への経済的負担もかなり軽減できると思います。ご健闘、お祈りします。

キャリアについて

新卒入社1年目、私が日本駐在の仕事を選びました。当時ド新人の私は、日本語をまだ使いこなせず、生活をほとんど一人で過ごす孤独感を自分で解消しなければなりませんでした。学生から社会人に変わり始めたばかりで、日本のビジネス業界やハイテク分野の専門知識、台湾ブランドが日本市場でどのように受け入れられやすいのか……など、突破しなければならない大難関は幾多もありました。社会人1年目の私には、まだまだ頑張れる余地がたくさんありました。

まだまだ頑張れる余地があると思ったから、当時の私は、夜遅くまで会社に残ることが多く、時に深夜の3時、4時まで会社に残っていました。深夜に東京の上野の街を歩き、寮に帰って少し休んで、翌日また会社に出勤していました。

ここまで踏ん張りたいのが自分の意志でしたが、当時の私は、会社に誰もいない時に、人知れず流した涙があり、あまりの辛さに、何度も諦めかけてもう台湾に戻ろうかと思っていました。

でもその時、母から私に言ってくれた言葉があり、その言葉を今仕事で苦しんでいる方にもシェアさせていただきます。「ここで諦めたら、今後どの会社に転職しても、また同じ理由で辞めることを選ぶようになってしまうのよ 」、とのことです。

その後、私がそれらの大難関を乗り越えられたのは、自分が突き進もうと決意したからだけでなく、人生の中で大きな助けになった方々に、私のそばで支えていただいたからです。

私が新卒入社して間もなく、本社がフランス支社の責任者Cさんを日本支社へ転勤させました。当時のCさんが今の私と同じくらいの年齢で、30代後半でした。Cさんがずば抜けて優秀な女性で、中国語、英語、日本語、フランス語の四カ国語を流暢に話せるのです。Cさんがいつも穏やかで上品な雰囲気を醸し出しているので、Cさんがいらっしゃる時、私の心がいつも和むようになります。Cさんのおかげで、文系出身の女子も、職場で美しい花を咲かせることができるのを見せていただきました。

ここで、特に文系出身の子供たちを応援したいと思います。私自身もこの道を歩んできて、いろんな職場で輝いている文系出身の方を見てきました。皆さんが直面している現実は、確かに文系出身の初任給が誰よりも低いかもしれないのですが、でも実際に歩ける道はとても広くて、輝ける場所は様々にあります。なので、もっと自信と勇気をお持ちください。自分の可能性を信じてください。

日本支社のチャネルセールス責任者Lさんは、ずっと外資系企業で働いてきた日本人であり、私のキャリアの中で貴重な存在です。Lさんからご自身が培ってきた経験を、いつも気前よく私に教えていただきました。日本市場調査のやり方や日本人の考え方など、日本のチャネルを体系的に分析する方法を教えていただきました。取引先のところに連れていただいた時にも、その機会を利用して交渉のコツを教えていただきました。Lさんに対して、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

日本支社は、Cさんがお引っ張りになったおかげで、順風満帆になりました。当時、本社は日本市場をターゲット市場として展開しようと決めました。会長のMさんも直々に日本に出張なさることになりました。Mさんのチャネル視察ツアーで、私が同行通訳を務めました。Lさんが視察ツアーで車を運転していた時、Mさんご自身は会社で一番トップの方にもかかわらず、その時あえて助手席にお座りになりました。ただLさんともっと話し、日本市場についてもっと学びたいとのお気持ちでした。視察中、どんな身分の話し相手に向き合っても、Mさんはいつも静かに耳を傾け、決して人の話を遮らず、真剣に質問をなさっていました。また、東日本大震災後、日本人従業員への家族援助に対し、お心遣いをいただいていました。私の目に、Mさんは禅僧のように映っていました。

コロンビア大学から台湾に帰国後、私が2社目の会社に入社し、そして10年間も勤めていました。もし最初の会社に市場というものを教えていただいだとすれば、2社目の会社に市場販売から工場生産までの一貫体制を教えていただきました。

2社目の会社に勤めていた最初の3年間、私が中国大陸に駐在する量産プロダクトマネージャー(PM)でした。当時、所属していた部門のゼネラルマネージャーVさんは、何十年も工場を仕切ってきたベテランで、工場の全体をきちんと把握できる方です。いつも誰よりも遅く退社し、また一番早く出社する方で、自ら手本となって模範を示すリーダーシップを見せていただきました。

当時、私の直属の上司はAさんでした。Aさんはとてもオープンマインドで、部下にそれなりの裁量権を与えて育てる方です。Bさんは別部署の上司でした。その時の出来事でしたが、当時Bさんの部署はマテリアルプロダクトマネージャー(MPM)の人手を至急借りる必要がなり、Aさんが私の意向を尋ね、私が手伝うことにしました。

ただ、私はもともと資材調達を担当するMPMではなく生産ラインを担当するPMでした。MPMが工場内で最も複雑なシステムやプロセスを担当する役とされ、私はそれを短期間で全部覚えるのがもういっぱいいっぱいで、どの部品が足りないのか、どのサプライヤーに頼めばいいのかという進捗状況まで、さすがに私一人で全部カバーするのは無理でした。

幸いにして、Bさんは上層部の方でありながら、システムの操作、資材購買部窓口との連絡、リードタイム短縮などのような実務に直々に携わることは、彼女にとって楽勝でした。私はBさんの部署で手伝いをしていた数週間のうちに、毎週の水曜日に資材調達の進捗状況をお客様に報告しなければならないので、締め切りを守るために、いつも火曜日の夜に工場で寝泊まりし、資料の大枠作成を準備できるようにしておきました。翌朝、Bさんは自分のご予定がどんなに詰まっていても、必ず直々に私を手取り足取り教えながら、二人で一緒に残りの資料を完成させるようにしていました。

Vさん、Aさん、Bさんから、工場管理の基本を教えていただいたことに、心より感謝しています。

2社目の会社に勤めていた4年目に、当時会社がある日本メーカーに投資し、私が所属していた部門のGM officeは日本語ができる人手が必要となり、私をGM officeに転勤させ、私の直属の上司がDさんとなりました。当時のDさんがキャリアも人生知恵も最も成熟した段階に達しており、昨年Dさんが定年退職を迎えられるまで、私はずっとDさんについてきました。企業の上層部がどうやって企業戦略を策定するのか、さらに、会社が自分の力を発揮することで台湾の発展にどのように貢献できるのか、Dさんから学ばせていただきました。この貴重な機会を与えていただき、感謝の気持ちを言葉で言い表せないのです。

Dさんのように台湾の未来を背負って立つ人が各界にいらっしゃるからこそ、台湾は今一歩ずつ着実に進んでいけるのだと思います。

まだまだ感謝したい方はたくさんいらっしゃるのですが、紙面の都合で、割愛させていただきます。いままで人生の中で大きな助けになった方々から、私に教えていただいたのは、上司というものが、決して職場でのポストで尊敬られるのではなく、むしろ自分自身の言動や部下への思いやりで、部下が上司の背中を見ながら学び、自然に心から上司を尊敬するようになる、とのことです。

会社を立ち上げる

30代も終わりに差し掛かろうとしている私は、キャリア人生の後半をどう展開していくかを真剣に考えるようになりました。今年に入って、手元の仕事をひと段落終えた後、長く勤めた会社を辞め、これから独立して自分の会社を立ち上げることにしました。

これから独立している姿で、これまで培ってきた知識と経験を活かし、台湾と日本のより多くの美しいところが見つけられ、台湾と日本の友情がより深くなり、台湾と日本がより多くの笑顔に包まれるように、微力ながらお力添えさせていただく所存です。

会社設立という道のりで、特に私の家族に感謝したいのです。ずっと私の心強い後ろ盾になってくれているからこそ、私が常に勇気を持って決断することができます。